サクランボ栽培から紐解く日本史
みなさま、こんにちは。
東北グルメナビゲーターのしもむです。
今日は、かわいいサクランボがどのように日本に入ってきたのか、そして、いかにして今の一般的なフルーツになったのかについてお伝えいたします。
サクランボが日本にやってきた!
サクランボは、寒冷地での栽培に適していましたが、雨や低温に弱いため、日本での栽培はすぐに適応させることは困難でした。
【1868年(明治元年)】
ドイツ人R,ガルトネルが、北海道を開墾し、6本のさくらんぼをはじめ、多種の果実等を試験的に植えました。
【1872年(明治5年)】
北海道開拓使庁において、アメリカ人のホーレス・ケプロンの助言で、さくらんぼを導入。国の業務として栽培が開始。
【1875年(明治8年)】
内務省が全国に苗木を配布し、各県で試験的に果樹の栽培が試みられました。
ホーレス・ケプロンって?
ちょっとここで話が横道にそれますが、このホーレス・ケプロンという人物は、北海道の開拓にあたって多大な功績を残した人物です。
時は明治維新後、北海道開拓にあたり、開拓のノウハウを用いるべく、主に欧米から派遣されたのが、「お雇い外国人」と呼ばれる方たちです。
その中の一人として、齢が70歳に近いケプロンがいました。
当時、70歳に近いと言えば相当な老体にもかかわらず、ケプロンは、農業・工業・鉱業・医学など、幅広い英知を北海道にもたらしました。
北海道の風土を考慮した麦作・酪農の奨励や、道路・鉄道の建設電車、北海道らしい風景とも言える格子状防風林の提唱、札幌農学校学校(現・北海道大学)設立の進言など、現代の「北海道風景」と思しきものは、全てケプロンを無くして存在し得ないといっても過言ではありません。
サクランボの販路拡大へ
【1875年(明治8年)】
内務省が全国に苗木を配布し、各県で試験的に果樹の栽培が試みられました。
【1895年(明治28年)】
日持ちしないさくらんぼの販路拡大の為、井上官兵衛が、自宅でさくらんぼの缶詰作りを開始。
【1901年(明治34年)】
鉄道の発達により、生産地から都市部への販路が拡大。
【1910年(明治43年)】
山形県農事試験場において、桜桃名称一定協議会が開かれ、それまで番号などで呼ばれていた品種に和名を付けました。
ナポレオン → ナポレオン (那翁)
ガバナーウッド → 黄玉
アーリーパープルギーヌ → 日の出
ロックボートビガロ → 高砂
【1912年(大正元年)】
東根市で、佐藤栄助が現在一番人気の高い佐藤錦の品種改良に取り組み始めました。
【1928年(昭和3年)】
佐藤錦の苗木を、岡田東作が販売を始めました。
【1937年(昭和12年)】
寒河江市に日東食品を誘致して、缶詰加工の生産を開始。
【1943年(昭和18年)】
戦争の為、さくらんぼの木は伐り倒され、豆や麦が植えられるように。
【1950年(昭和25年)】
さくらんぼの生産が再び盛んになりました。
【1969年(昭和44年)】
人工甘味料のチクロに発癌性や催奇形性の疑いがあるとし、アメリカや日本で使用が禁止されました(チクロショック)。
これに伴い、果実の缶詰全体的に売上が激減しました。缶詰生産に頼っていたさくらんぼ生産は、生で出荷する必要性に迫られました。
【1971年(昭和46年)】
さくらんぼの収穫に最も貢献している雨除けテントが開発されました。
【1978年(昭和53年)】
さくらんぼの輸入が自由化。アメリカ産さくらんぼの輸入が条件付きで開始されました。
国内生産者を守るため、国も高品質生果への転換をはかるための助成金をだし、施設や流通の改善に尽力しました。
近年のサクランボの動き
【1992年(平成4年)】
アメリカンチェリーの輸入が全面解禁。
【2001年(平成13年)】
チリ産さくらんぼが輸入解禁。
【2005年(平成17年)】
オーストラリア産さくらんぼが輸入解禁。
※政府は、重要病害虫の侵入防止の為、検疫上の問題が解決された国からの輸入のみ認めている。
さくらんぼの自由化で、国内産さくらんぼの売上減が懸念されましたが、高品質生果への転換が成功し、外国産とは上手に棲み分けされ、国産も外国産も共に売り上げを伸ばしています。
というわけで、ケプロンが北海道に導入したサクランボは栽培に適した場所を求め山形県に渡り、幾多の困難を乗り越え、現在の安定した販路が確立したのでした。
個人的にはアメリカンチェリーの輸入の全面解禁が平成に入ってからというのも驚きでした。
小さなかわいい一粒ですが、お召し上がりの際は、ぜひこの粒に込められた歴史に思いをはせてみてはいかがでしょうか?
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